黄金時代

だいたい映画のはなし

「たかが世界の終わり」を考える

たかが世界の終わり」(グザヴィエ・ドラン/2016)をみた

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近く訪れる自身の死を伝えるため、家族に会いに実家へ12年ぶりに戻る話。ある家族の、ある一日のおはなし。

主人公は何の病気なのか、何故12年も家に帰らないことになったのか、果たして主人公は死を迎えたのか、明かされぬことは明かされぬまま、あくまである家族の、ある一日が切り取られていた。それでも12年という月日は各々が抱える想いを拗らせるには十分すぎたし、近い関係性だからこそ不器用にぶつかり合ってしまう、生々しい「家族」の話であった。 

 

ここからネタバレ

 

母の愛

「理解はできないけれど、愛してる」

本当この台詞だけは真に救いの言葉だった。

下手に取り繕うのではなく、理解できないと嘘偽りなく伝える強さ。かつて母は動揺しともすれば思うままに詰り、息子や自身を責めたかもしれない。理解「しない」と「できない」では何もかもが違うということ、解った振りこそが相手への最大の無関心であり諦めであり侮辱であるということ。たくさん後悔して理解しようと努めてきたからこそ「理解できない」という答えに母親はたどり着いたのだろう、葛藤と紆余曲折の末の言葉はただただ真っ直ぐな愛、それ以外の何物でもなかった。

 

ルイを殺したのは誰だ

きっと家を出るきっかけになったのだろう、かつてのそしておそらくは初めての、恋人の登場。マットレスに顔を埋めて懐古するルイ、カトリーヌに現実に呼び戻されいつ戻るかと訊かれても半ば虚ろに朦朧とさえしているルイを見て、

ああ、この人家族に会いに来たんじゃないんだ。きっと死ぬその直前に一目、ピエールに、いや彼との思い出に会いたかったんだ。

と思った。家族の愛には応えられなかったけど、この人は真に愛に生きた人なんだなあ、と。ただでさえ何かを貫き通すって難しくて労力の要ることだのに、家族には異端とさえ思われている信念と引き換えに同じだけ傷つく覚悟を決められる強さ。誰しもができないからこそ美しい。だから美しいんだ。美しくて、眩しい。

自分たちを棄てた、弟が眩しくて堪らなかった兄。部屋からシュザンヌと肩を並べてルイを見詰めるアントワーヌが零した言葉こそ、彼の唯一心からの素直な言葉だったろう。「家族」という枠組みに囚われて、しかし自分が順応できずにいることも一方では自覚しながらも小さい家族というコミュニティから抜け出す術を持てずにいる(それが彼の優しさで弱さなんだとも思う)。小さな世界で不恰好に足掻き続けているのがアントワーヌ。彼もまた、同じように「家族」に傷ついていた。

 

とはいえ、ルイは今を生きるピエール本人に会いたかったのだとは思わない。しかし自身の死ばかりを考えていた彼にとって、自分よりも早く訪れる大切な人の死に対してこそ、最も無防備だったのではないだろうか。思い出と信念とをほとんど核として支えていたピエールが死んだと聞かされたとき、スイッチが切れるように彼の世界は閉ざされてしまった。煙草を放り踵を返したそのときにこそ、ルイが全てを諦めて自分を殺しさえしてしまったのだと思った。

デザートの食卓、ルイのスピーチに涙が止まらなかった。「家族」として求められた役割を果たすため、望まれた模範解答を言葉にするシーン。それはルイなりの家族に対する愛であり、お別れの言葉であり、感謝だったのだろう。なのにとびきり哀しかった。きっとそれはあのとき、ルイは既に死んでいたからだ。

  

普通が含有する主観性にこそ気づくこと

普通ってなんなんだ。 

「普通の人」は家族や共同体、コミュニティの価値観を基準して動きます。

「普通の人」について – ところてん – Medium

先日友人に紹介してもらった記事。とても面白かったです。是非読んでください。

結局本作だってここでいうところの「普通」から逸脱したルイに「普通の人」たちは戸惑って、怒って、傷つけて傷ついてきたんだろう。冒頭で言及した母親ですら、自分の中の無自覚だった「普通」に気づいて、さらに一歩大きい枠組みの中で自分と息子の立ち位置を見つめ直すことに距離と月日を要したんでしょう。

 

ここからは映画の内容と直接関係ない話をします。読まなくてもいいです。

ダイバーシティダイバーシティってどこの企業も言う。それなのにリクルートスーツが唯一認められた戦闘服って可笑しくない。いや、リクスーが悪いわけじゃない、TPOをわきまえるのはマナー。しかしその範囲内ですら、真黒のリクルートスーツをやめた瞬間に異端の目を向けられる。そんなに嫌なら、そんなの気にしないでリクスーじゃなくても受かってる人だっているじゃない、ってか。うるさいな、こちとら狭き門に人生掛けて戦ってるんだ、いらんリスク背負えるか!って思ってリクルートスーツ着ていますが本当に悲しい。こんなの絶対気持ち悪いと思っているのに「いらんリスク」って言えちゃう自分も、結局異端にもなりきれない自分も、全部全部悲しい。

 

普通って何なんだろうな。

自分のことを普通だと思うところは常識的な振る舞いがそれなりにできるところであり、普通じゃないと思うところは自分の認められないものを求められたときに強要だと感じるところ。

でもこれどちらとも結局超主観的な物差しでしかないわけで、そこに無自覚な「普通」は存在し得るわけですよね。それを無自覚で他人に「普通」だって押し付けるのってすごく怖いことで、押し付けられた側からしてみればひどく不愉快なことだと思いませんか。

(答えはないです。抽象度の高い話ばかりして具体に落とし込めないのがわたしの悪いところです。具体の経験・勉強不足と、アウトプットの仕方の問題が原因かな。)

 

どうでもいいけど、本作だったらルイはリクスーを脱げる人間でアントワーヌは文句は言うけど結局リクスー着て行く人間だよなと思った。本作において、普通へも異端へもなりきれないアントワーヌこそが、「普通」であることに対する自覚と葛藤を持ちつつも異端へもなりきれない人間の投影だったのでは。今回ものすごく嫌われ役だったけれど、きっと彼のこと一番嫌いだと思っているのは誰でもないアントワーヌ自身だと思う。言ってしまったら言ってしまっただけ、自分も傷ついているんだろうなあ。ルイが死んだらきっと口では清々した、とか言ってまた憎まれ口を叩くんだろうけど、きっと心の中は後悔と悔しさの涙でいっぱいなんだろうね。

 

ある日の帰り道、エズラ・ミラーは絶対にリクルートスーツなんか着ないんだろうなあと車窓に映る自分を見詰めながら思った。わたしにはエズラみたいな人間が現実にいることが、なんと頼もしくって、一方で眩しくって堪らないのだ。