黄金時代

だいたい映画のはなし

「アメリカン・バーニング」感想

American Pastoral(邦題:アメリカン・バーニング/Ewan McGregor/2016)をみた

ユアン・マクレガー初の長編監督作品。Philip Rothの小説が原作で初稿は2006年。ユアン演じるシーモアには最初、ポール・ベタニーがキャスティングされていたとか。(IMDbより http://www.imdb.com/title/tt0376479/

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ストーリー:1960年代のアメリカ、アメリカンドリームを掴み絵に描いたような成功者として順風満帆な人生が約束されていると誰もが信じて疑わなかった主人公が、ベトナム戦争の渦中で反戦運動テロリズムに身を投じた一人娘に翻弄される転落劇。

感想:めっっっっっちゃ落ち込んだ。ユアン・マクレガーをこのところ特に贔屓目で見ているからという要素を除いても、「家族」「父娘」「母親」「戦争と平和」らへんが絡むと弱くなるような人生を歩んでいるのでキツかった。そのへんはネタバレしながら以下に纏めるとして、先ほど横に置いておいたユアンの話だが、現在4人の娘の父親であるユアン・マクレガーが果たしてどんな想いでシーモアを演じたのかと思うと、結構これがバカにならないくらい応えた。監督としてのユアンの手腕は自身の至らなさ故ぶっちゃけ分からなかったし、原作も未読なのでアメリカでの手応えの悪さについては賛成も反対もなく、身に応えすぎて面白かったかどうかの評価も機能しないのだけど、「家族」「コンプレックス」「戦争」「テロリズム」「宗教」とまあちょっと風呂敷広げた割に収拾が追いついていない感は否めない。でも中年の小綺麗なお堅い真面目ユアンと、どんどん憔悴していくジェニファー・コネリー、起伏の激しい役柄を演じきるダコタ・ファニングなんかはとても良かった。ユアンもだけれど、ファニング姉妹の声が好き。

以下ネタバレ

 

 

第一部:幼少期(ワカル)

娘の吃音症は一種の防衛本能であるというような趣旨の発言をセラピストがするが、まあ確かに、完璧な美貌を持ちそれを評価されてきた母親、学生時代のスポーツと海兵隊での活躍から英雄と囃し立てられた父親を持って生まれたら、そりゃあ捻くれたくなる気持ちも分からんでもない。母親への風当たりが父親に比べて強いのは同性だからなのかなあと漠然と思ったり。母親が疎ましいとは思わないまでも、本人も自覚なしに父親の愛情を勝ち得たいと本能で敵対する気持ちがあったように見えた。せがんだキスを撥ね付けられたとき、そこで覚えた傷心と失望は、以後訪れる親子の溝の根底に流れ続けていたのではないだろうか。そして僧侶の一件を引き金に、自分の中の抗えない良心と溢れ出る純粋な信念を自覚し、疑念と不信もが同時に生まれることとなった。

まあまだね、このころのわたしはまだ「わたしだってもしユアンの娘だったらお父さんのことちょっと困らせたいと思うかもしれないなあフフフ」なんて暢気に思ってました。それに、小さい娘を愛情たっぷりにCookieちゃんと呼ぶユアンを思う存分観て浮かれるくらいには心に余裕があったのである…

 

第二部:暴徒時代(おかんめっちゃツライ)

大義のために自ら行動を起こすことはとても大切なことだが、大いなる善や幸福を勝ち得ようとする者が、目の前のたった数人の家族を理解しようとも愛そうともせずに蔑ろにし、果たしてそんな人間がより大きなものの一助となれるものなのかと疑問を抱かずにはいられない。犠牲にすることと愛さないことは同義じゃないよね。あっでももしかして反抗期で片付けられるレベルだったのか?自分の無力さを思い知って謙虚さを自覚することもなく、世界を変えられると信じた自分たちは無敵なのだと盲信して止まないのは、若気の至り?戦争とは少し違うけれど近しいことを長い間こねくり回して考えてきたので、当時の自分がどう思っていたかなんてとうに忘れてしまった。わたしは今でも、いつか積み上げてきたものや信じてきたことが「偽善」だと思い知らされることが、それに向きあわなければならない局面が訪れることが怖くて堪らないし乗り越えられるのかも分からないでいるので。

そしてもうひとつ、このあたりから特に母親が壊れていく。今まで挫折を知らずに順調に積み上げてきたものがひとたび不穏に揺れたら最後、ひどく脆いものである。美貌も賞賛も自ら望んで手に入れたものではなく、すべて失ったときに自分には故郷も学も職もないのだと思い知る。手の内に残ったものは、娘を理解できず分かり合えもせずどこかで誤った育て方への後悔と自責の念のみ。そんな最も辛い時期に娘は相変わらずの上、頼みの綱の旦那さえもが自分のためだけに生きてくれないとなっては、よく無傷でことなきを得、整形だけで乗り越えられたよなあと思う(その後の不倫には逆に良かった〜と安堵すら覚えた)。決してシーモアを責めているわけではなく。誰を見ても八方塞がりで不幸な息苦しさに、そろそろ目眩がしてくるころ。

 

第三部:ジャイナ教入信(おとんがツラすぎて泣くどころの話じゃない)

やっと再会を果たした娘も、やっと昔のように元気を取り戻した妻さえも、次々に指の隙間からこぼれ落ちるように失っていくシーモア。この映画を撮っていた時期、ちょうどユアンの長女が大学進学のため単身NYへ。そんな経験も踏まえて、程度こそ違えど子を持つ親ならいずれ経験する我が子の自立、親離れで感じる喪失感はシーモアに訪れた喪失感と同義であり、それは指の隙間を砂がこぼれ落ちていくようで手放したものは二度と元には戻らないのだとご本人がインタビューで仰っていた。レイプされたことを告白されるシーンもセラピストに詰め寄ってぶちまけるシーンも、自分の父親と父親としてのユアンを思えば二重三重になるものだから、殊更辛かった。一体どんな気持ちで。

It could also be an extreme example of just what all of us go through when our kids leave home. It is that feeling of loss, that the sand is slipping through through your fingers, and things will never be the same again. That is maybe what I come away with also in this film when I see it.


本当にサラサラサラと何も掴み留められずに失っていく主人公の絶望が心底苦しい。にも関わらず長年こんな仕打ちを受け、殺人まで犯した真実も明らかとなった後でさえ自分勝手に振舞い続ける娘を、それでも誰よりも愛し、待ち続けることを辞さなかったシーモア。最初こそ自分がどこで間違えたのか、その綻びへの後悔と責任を感じる気持ちが強かっただろうが、最後はもう愛でしかなかった。

一方で、娘の言うところの「贖罪」には父親(家族)への気持ちは含まれていたのだろうか。それがあったからこそ、いつまでも自分を待ち続けていると知っている父親にさえ最期まで会わなかったのだと言え……ないわ!!!!そんなの最高に最低な自己満足でしかなくない!?!?!?最早若さに免じることなどできないレベル。挫折も無力さも思い知り自身も深く傷ついたところで、根底にあったはずの信念を棄てることを選び、今まで犯した罪を他者になにも還すことなく自分で自分を厳しく戒めることだけで赦しを得ようとするなんて。ならばせめて父親にだけでも、心の安寧を還しても良かったのでは。誰もいなくなった後に訪れるならいざ知らず、叔父や母親の前を堂々と素知らぬ顔をして通り過ぎ、浅ましくも父親に別れを告げに来るラストも、泣きはしたけれどやはり許せない。

シーモアの、ラストのどんなに時が経っても静かに待ち続ける姿と、数少ない「あなたたちには無い、家族と築き上げた過去の想い出」に浸って忘れていた幸福を思い出し心から微笑んだ姿が作中で最も辛かった。満身創痍。

 

おわりに

「バーニング」って何ですかね。フライヤーで家が燃えているからだろうか(タルコフスキーのOffretみたい)。作品を観て、pastoral(田園詩)がどれほど的確だったかを思い知って涙を呑んだ。

こんなに身に応える映画は沈黙(マーティン・スコセッシ/2016)以来だったので、これから先ユアンが父親役を演る作品はもう見れないかもしれないとまで思ったのだった。しかしこのあと、ひとまず所感を書きなぐった後にTrainspottingとT2 Trainspottingを立て続けに観たら元気を取り戻しました。ダニー・ボイル、ありがとう!というわけで次回こそトレスポ記事を書きあげたいです。

 

 

追伸:前記事で述べた公開待ち作品のうち2作品が日本公開決定!

スイス・アーミー・マン」2017/9/22、「ゴッホ〜最期の手紙〜」2017/10

有難さを噛み締めています。心から楽しみです。