黄金時代

洋画をみます/書生

「アメリカン・バーニング」感想

American Pastoral(邦題:アメリカン・バーニング/Ewan McGregor/2016)をみた

ユアン・マクレガー初の長編監督作品。Philip Rothの小説が原作で初稿は2006年。ユアン演じるシーモアには最初、ポール・ベタニーがキャスティングされていたとか。(IMDbより http://www.imdb.com/title/tt0376479/

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トーリー:1960年代のアメリカ、アメリカンドリームを掴み絵に描いたような成功者として順風満帆な人生が約束されていると誰もが信じて疑わなかった主人公が、ベトナム戦争の渦中で反戦運動テロリズムに身を投じた一人娘に翻弄される転落劇。

感想:めっっっっっちゃ落ち込んだ。ユアン・マクレガーをこのところ特に贔屓目で見ているからという要素を除いても、「家族」「父娘」「母親」「戦争と平和」らへんが絡むと弱くなるような人生を歩んでいるのでキツかった。そのへんはネタバレしながら以下に纏めるとして、先ほど横に置いておいたユアンの話だが、現在4人の娘の父親であるユアン・マクレガーが果たしてどんな想いでシーモアを演じたのかと思うと、結構これがバカにならないくらい応えた。監督としてのユアンの手腕は自身の至らなさ故ぶっちゃけ分からなかったし、原作も未読なのでアメリカでの手応えの悪さについては賛成も反対もなく、身に応えすぎて面白かったかどうかの評価も機能しないのだけど、「家族」「コンプレックス」「戦争」「テロリズム」「宗教」とまあちょっと風呂敷広げた割に収拾が追いついていない感は否めない。でも中年の小綺麗なお堅い真面目ユアンと、どんどん憔悴していくジェニファー・コネリー、起伏の激しい役柄を演じきるダコタ・ファニングなんかはとても良かった。ユアンもだけれど、ファニング姉妹の声が好き。

以下ネタバレ

 

 

第一部:幼少期(ワカル)

娘の吃音症は一種の防衛本能であるというような趣旨の発言をセラピストがするが、まあ確かに、完璧な美貌を持ちそれを評価されてきた母親、学生時代のスポーツと海兵隊での活躍から英雄と囃し立てられた父親を持って生まれたら、そりゃあ捻くれたくなる気持ちも分からんでもない。母親への風当たりが父親に比べて強いのは同性だからなのかなあと漠然と思ったり。母親が疎ましいとは思わないまでも、本人も自覚なしに父親の愛情を勝ち得たいと本能で敵対する気持ちがあったように見えた。せがんだキスを撥ね付けられたとき、そこで覚えた傷心と失望は、以後訪れる親子の溝の根底に流れ続けていたのではないだろうか。そして僧侶の一件を引き金に、自分の中の抗えない良心と溢れ出る純粋な信念を自覚し、疑念と不信もが同時に生まれることとなった。

まあまだね、このころのわたしはまだ「わたしだってもしユアンの娘だったらお父さんのことちょっと困らせたいと思うかもしれないなあフフフ」なんて暢気に思ってました。それに、小さい娘を愛情たっぷりにCookieちゃんと呼ぶユアンを思う存分観て浮かれるくらいには心に余裕があったのである…

 

第二部:暴徒時代(おかんめっちゃツライ)

大義のために自ら行動を起こすことはとても大切なことだが、大いなる善や幸福を勝ち得ようとする者が、目の前のたった数人の家族を理解しようとも愛そうともせずに蔑ろにし、果たしてそんな人間がより大きなものの一助となれるものなのかと疑問を抱かずにはいられない。犠牲にすることと愛さないことは同義じゃないよね。あっでももしかして反抗期で片付けられるレベルだったのか?自分の無力さを思い知って謙虚さを自覚することもなく、世界を変えられると信じた自分たちは無敵なのだと盲信して止まないのは、若気の至り?戦争とは少し違うけれど近しいことを長い間こねくり回して考えてきたので、当時の自分がどう思っていたかなんてとうに忘れてしまった。わたしは今でも、いつか積み上げてきたものや信じてきたことが「偽善」だと思い知らされることが、それに向きあわなければならない局面が訪れることが怖くて堪らないし乗り越えられるのかも分からないでいるので。

そしてもうひとつ、このあたりから特に母親が壊れていく。今まで挫折を知らずに順調に積み上げてきたものがひとたび不穏に揺れたら最後、ひどく脆いものである。美貌も賞賛も自ら望んで手に入れたものではなく、すべて失ったときに自分には故郷も学も職もないのだと思い知る。手の内に残ったものは、娘を理解できず分かり合えもせずどこかで誤った育て方への後悔と自責の念のみ。そんな最も辛い時期に娘は相変わらずの上、頼みの綱の旦那さえもが自分のためだけに生きてくれないとなっては、よく無傷でことなきを得、整形だけで乗り越えられたよなあと思う(その後の不倫には逆に良かった〜と安堵すら覚えた)。決してシーモアを責めているわけではなく。誰を見ても八方塞がりで不幸な息苦しさに、そろそろ目眩がしてくるころ。

 

第三部:ジャイナ教入信(おとんがツラすぎて泣くどころの話じゃない)

やっと再会を果たした娘も、やっと昔のように元気を取り戻した妻さえも、次々に指の隙間からこぼれ落ちるように失っていくシーモア。この映画を撮っていた時期、ちょうどユアンの長女が大学進学のため単身NYへ。そんな経験も踏まえて、程度こそ違えど子を持つ親ならいずれ経験する我が子の自立、親離れで感じる喪失感はシーモアに訪れた喪失感と同義であり、それは指の隙間を砂がこぼれ落ちていくようで手放したものは二度と元には戻らないのだとご本人がインタビューで仰っていた。レイプされたことを告白されるシーンもセラピストに詰め寄ってぶちまけるシーンも、自分の父親父親としてのユアンを思えば二重三重になるものだから、殊更辛かった。一体どんな気持ちで。

It could also be an extreme example of just what all of us go through when our kids leave home. It is that feeling of loss, that the sand is slipping through through your fingers, and things will never be the same again. That is maybe what I come away with also in this film when I see it.


本当にサラサラサラと何も掴み留められずに失っていく主人公の絶望が心底苦しい。にも関わらず長年こんな仕打ちを受け、殺人まで犯した真実も明らかとなった後でさえ自分勝手に振舞い続ける娘を、それでも誰よりも愛し、待ち続けることを辞さなかったシーモア。最初こそ自分がどこで間違えたのか、その綻びへの後悔と責任を感じる気持ちが強かっただろうが、最後はもう愛でしかなかった。

一方で、娘の言うところの「贖罪」には父親(家族)への気持ちは含まれていたのだろうか。それがあったからこそ、いつまでも自分を待ち続けていると知っている父親にさえ最期まで会わなかったのだと言え……ないわ!!!!そんなの最高に最低な自己満足でしかなくない!?!?!?最早若さに免じることなどできないレベル。挫折も無力さも思い知り自身も深く傷ついたところで、根底にあったはずの信念を棄てることを選び、今まで犯した罪を他者になにも還すことなく自分で自分を厳しく戒めることだけで赦しを得ようとするなんて。ならばせめて父親にだけでも、心の安寧を還しても良かったのでは。誰もいなくなった後に訪れるならいざ知らず、叔父や母親の前を堂々と素知らぬ顔をして通り過ぎ、浅ましくも父親に別れを告げに来るラストも、泣きはしたけれどやはり許せない。

シーモアの、ラストのどんなに時が経っても静かに待ち続ける姿と、数少ない「あなたたちには無い、家族と築き上げた過去の想い出」に浸って忘れていた幸福を思い出し心から微笑んだ姿が作中で最も辛かった。満身創痍。

 

おわりに

「バーニング」って何ですかね。フライヤーで家が燃えているからだろうか(タルコフスキーのOffretみたい)。作品を観て、pastoral(田園詩)がどれほど的確だったかを思い知って涙を呑んだ。

こんなに身に応える映画は沈黙(マーティン・スコセッシ/2016)以来だったので、これから先ユアン父親役を演る作品はもう見れないかもしれないとまで思ったのだった。しかしこのあと、ひとまず所感を書きなぐった後にTrainspottingとT2 Trainspottingを立て続けに観たら元気を取り戻しました。ダニー・ボイル、ありがとう!というわけで次回こそトレスポ記事を書きあげたいです。

 

 

追伸:前記事で述べた公開待ち作品のうち2作品が日本公開決定!

「スイス・アーミー・マン」2017/9/22、「ゴッホ〜最期の手紙〜」2017/10

有難さを噛み締めています。心から楽しみです。

 

 

「新しき世界」「ピンポン」「グラン・ブルー」-5月ダイジェスト版

心の余裕のなかった2月(9本)3月(6本)を通り越し、5月はそれなりに映画を観れているし(23本)、わたしは趣味の両立ができないというクリティカルな持病持ちでしかし丁度今は映画に塗れたい時期なんでしょうな、などと思う(美女と野獣を観て以来、ユアン・マクレガーに引っ張られっぱなしなのだが、今日はその話はしない)。

本日の構成は最近観た映画ダイジェスト版と日本公開待ち作品について。

 

最近みた映画

新しき世界(パク・フンジョン/2013)
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韓国ノワール映画、の割に直接的なグロ描写は控えめ。韓国では本当の兄弟でなくても仲の良い目上の人に対して男性から男性へは형(ヒョン/兄)と呼ぶのだけれど、ヒョンのニュアンスが日本語ではドンピシャで置き換えられなくて、血は繋がっていないけれど肉親のそれに限りなく近い呼称なんです。そこには目に見えないけれど確からしい信頼と情愛があるというか。限りなく近いんです、関係性が。

そこで、特に病院とヨスにおける、ジャソンの中でチョンの存在定義がスイッチを押したかのように切り替わる瞬間がどれも最高に良かった。この映画はそのシーンに尽きると言っても過言ではないと思う。ヨスでは一警官から、もう後戻りができなくなったことを示していて、ジャソンにとってチョンはただのチンピラからボス(仲間)へと変化した。最期の病院ではチョンのことをボスからヒョンと確からしく呼べるようになった瞬間で、「俺を許せるか?」の発言は本来ならジャソンがチョンへすべき質問なわけで、あれはもう、チョンの「俺はお前を許すよ」に等しい発言なのではないか。直接的な言葉こそないけれどあの瞬間、互いが互いを全て分かり合った上で赦し合っていたのである。ジャソンの葛藤と時を同じくして、チョンもまた直接ジャソンにぶつけられない疑いと怒りとを、例えばソンムの粛清をレイヤーにしたように間接的に伝えることしかできなかったのだ。

互いの全てを赦し合えたからこそ、ジャソンは最後の最後でずっと見失っていた「自分」をヒョンの中に見出し、チョンの世界でチョンとの過去を抱え一生を孤独に生きることを始まりで決めたのである。もう最後のほうなんてゴッドファーザーフランシス・フォード・コッポラ/1972)のマイケルを見てるかと思ったけれど(最初はイースタン・プロミスデヴィッド・クローネンバーグ/2007)寄りかと思っていたけれど、見れば見るほど近しいのはマイケルだった)、マイケルは自分の「家族」を守りたくて兄と父の死を引き金に力と孤独が双曲線を成したけれど、両者はその信念が有るものに対してなのか無いものに対してなのかで全く異なっていると感じた。(有ると信じていたものが指の隙間から零れ落ち、虚構だったのかとさえ思えるマイケルもつらすぎるけれど、最初から明白に失ったものに対して覚悟を決めざるを得なかったジャソンもまた、つらいよなあと思ったり。)

 

ピンポン(曽利文彦/2002)
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決して邦画を毛嫌いしている訳ではないつもりだが、なんだかんだ言って今年一本目の邦画だったしこんなに見返している邦画も久しぶり。先日バッド・チューニング(リチャード・リンクレイター/1993)をみて己の中の青春が火を吹いた。そしてピンポンでぶり返した。丁度窪塚洋介×宮藤官九郎特集で先週目黒シネマがピンポンとGO(行定勲/2001)をかけてくれていたので、スクリーンでも観ることができた(久しぶりに観るフィルム上映、画面の雑音に思わずくうぅと喉が鳴る)。

窪塚もいいけど(睫毛長すぎ)スマイルの井浦新、良すぎか。スマイルはボソボソ喋るしぺこは何喋ってるか分からないので初見では初めて邦画に日本語字幕を付けて観るなど。その後原作も読みましたが、わたしはあの物語をあの2時間に過不足なくうまく纏めきれていたと感じたし、台詞は原型があるとしても入れ方のタイミングなんかがとっても絶妙だったと思う。好きな台詞とシーン → 「あっかき氷だ!」「そこんとこよろしくっ」

ピンポンの何がいいかって、スマイル解釈のヒーローがぺこで、同時にまたぺこ解釈のヒーローはスマイルであるところである(ぺこはスマイルのことを相棒と呼ぶけれど、風間との準決勝でヤベエとなったときにヒーロー見参と唱えて応答したのは紛れもなくスマイルであったわけなので)。他人の自分の持たざるものに憧れたり嫉妬したりする気持ちは痛いほど分かるけれど、その部分を素直に認めて尊重し合える、最後にはそこに自分が全力で寄りかかることさえできる信頼感。そんなパートナーってなかなかいなくないか。自分のことを正直に自省して認められる素直さもまた、若さの柔軟性でもあるんだろうなあなんて。

アツがナツいぜーーーー!!!!

 

グラン・ブルーリュック・ベッソン/1988)
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やっとみた案件。圧巻のシチリアである。

ラストシーンに尽きるのかななんて思ったりもするのだけれど、わたしはあれを最高のエンディングだと感じた。陸で息の出来ない男、彼こそが人魚でありあのイルカは父でありエンゾであったのだと。海へ泡となって溶けていくジャック、最高のエンディング。好きだ。

母を知らず、最愛の父とも長くをともに過ごせないまま、イルカとエンゾだけが唯一何もかもをゆるしあえる存在であるという環境で育った彼にとって、それはもう陸に残って新たな家庭を築くという未来は酷とさえ言えるのではないだろうか。

海辺でアップライトピアノを弾くエンゾ、なんてお洒落なんだ。ただのガキ大将じゃあない。芸術的素養はいつでも美しく、だからこそヨーロッパに憧れるのだ。

 

日本公開待ち作品

スイス・アーミー・マン(ダニエルズ/2016)
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 無人島に取り残された主人公が助けを待ちくたびれ、いざ自殺しようと心を決めたまさにその時、波打ち際に打ち上げられた一体の死体(ダニエル・ラドクリフ)。死体がガスを発していることに気づき、なんとジェットスキーにもなっちゃうことが分かっちゃった。

ええ〜〜!?死体役って何それ、しかも動くって!?物語の落とし所としてどこに帰結するのか全くわからないけどめっちゃみたい。(下書きしてる間に2017/9月日本公開予定と決定)公式ホームページ内で、ワードの入力やカーソル操作で死体のマニーと遊べたりもしちゃう。↓

 

 

I Am Heath Ledger(エイドリアン・ビテンヒス/デリク・マレー/2017)
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ヒース・レジャーの家族や友人のインタビューや遺品による、ヒースの伝記ドキュメンタリー映画

わたしはヒースがいなくなってから洋画にも彼にものめり込んだクチなのでなにも言えた立場ではないのですが、もっと彼を見たかったし知りたかった。 最近ではDr.パルナサスの鏡テリー・ギリアム/2009)がとても好きで、ジョニー・デップジュード・ロウコリン・ファレル全員の「ヒースのトニー」がとっても、もうヒースのそれで、それだけで胸がいっぱいになる作品であった。

早く公開してほしいです。

 

Loving Vincent(ドロータ・コビエラ/ヒュー・ウェルチマン/2016)

トレイラーを見れば一目瞭然であるが、ゴッホの作品を元にゴッホの生涯を油絵のみを使ったアニメーションで語るという作品。ものすごい労力と手間である。この素晴らしい映画が早く見たくてしょうがない。一応公式ホームページでは去年からJapanの欄もずっとあってカミングスーンになっているし、URLにパルコが貼ってあるのでパルコ配給になるのかしら(本来は2016年9月公開の予定だったみたい)。絵の再現にモデルの写真を使って油絵を作成していたみたいなのだけど、そのキャストにシアーシャ・ローナン、エイダン・ターナーなんかがいたりもする。

 

 

結びに

次回はユアン・マクレガー特集かなあ。それでなくてもずっとトレインスポッティングの話をしたいと思っているので。今日も今日とてお付き合いありがとうございました。

 

「たかが世界の終わり」を考える

「たかが世界の終わり」(グザヴィエ・ドラン/2016)をみた

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近く訪れる自身の死を伝えるため、家族に会いに実家へ12年ぶりに戻る話。ある家族の、ある一日のおはなし。

主人公は何の病気なのか、何故12年も家に帰らないことになったのか、果たして主人公は死を迎えたのか、明かされぬことは明かされぬまま、あくまである家族の、ある一日が切り取られていた。それでも12年という月日は各々が抱える想いを拗らせるには十分すぎたし、近い関係性だからこそ不器用にぶつかり合ってしまう、生々しい「家族」の話であった。 

 

ここからネタバレ

 

母の愛

「理解はできないけれど、愛してる」

本当この台詞だけは真に救いの言葉だった。

下手に取り繕うのではなく、理解できないと嘘偽りなく伝える強さ。かつて母は動揺しともすれば思うままに詰り、息子や自身を責めたかもしれない。理解「しない」と「できない」では何もかもが違うということ、解った振りこそが相手への最大の無関心であり諦めであり侮辱であるということ。たくさん後悔して理解しようと努めてきたからこそ「理解できない」という答えに母親はたどり着いたのだろう、葛藤と紆余曲折の末の言葉はただただ真っ直ぐな愛、それ以外の何物でもなかった。

 

ルイを殺したのは誰だ

きっと家を出るきっかけになったのだろう、かつてのそしておそらくは初めての、恋人の登場。マットレスに顔を埋めて懐古するルイ、カトリーヌに現実に呼び戻されいつ戻るかと訊かれても半ば虚ろに朦朧とさえしているルイを見て、

ああ、この人家族に会いに来たんじゃないんだ。きっと死ぬその直前に一目、ピエールに、いや彼との思い出に会いたかったんだ。

と思った。家族の愛には応えられなかったけど、この人は真に愛に生きた人なんだなあ、と。ただでさえ何かを貫き通すって難しくて労力の要ることだのに、家族には異端とさえ思われている信念と引き換えに同じだけ傷つく覚悟を決められる強さ。誰しもができないからこそ美しい。だから美しいんだ。美しくて、眩しい。

自分たちを棄てた、弟が眩しくて堪らなかった兄。部屋からシュザンヌと肩を並べてルイを見詰めるアントワーヌが零した言葉こそ、彼の唯一心からの素直な言葉だったろう。「家族」という枠組みに囚われて、しかし自分が順応できずにいることも一方では自覚しながらも小さい家族というコミュニティから抜け出す術を持てずにいる(それが彼の優しさで弱さなんだとも思う)。小さな世界で不恰好に足掻き続けているのがアントワーヌ。彼もまた、同じように「家族」に傷ついていた。

 

とはいえ、ルイは今を生きるピエール本人に会いたかったのだとは思わない。しかし自身の死ばかりを考えていた彼にとって、自分よりも早く訪れる大切な人の死に対してこそ、最も無防備だったのではないだろうか。思い出と信念とをほとんど核として支えていたピエールが死んだと聞かされたとき、スイッチが切れるように彼の世界は閉ざされてしまった。煙草を放り踵を返したそのときにこそ、ルイが全てを諦めて自分を殺しさえしてしまったのだと思った。

デザートの食卓、ルイのスピーチに涙が止まらなかった。「家族」として求められた役割を果たすため、望まれた模範解答を言葉にするシーン。それはルイなりの家族に対する愛であり、お別れの言葉であり、感謝だったのだろう。なのにとびきり哀しかった。きっとそれはあのとき、ルイは既に死んでいたからだ。

  

普通が含有する主観性にこそ気づくこと

普通ってなんなんだ。 

「普通の人」は家族や共同体、コミュニティの価値観を基準して動きます。

「普通の人」について – ところてん – Medium

先日友人に紹介してもらった記事。とても面白かったです。是非読んでください。

結局本作だってここでいうところの「普通」から逸脱したルイに「普通の人」たちは戸惑って、怒って、傷つけて傷ついてきたんだろう。冒頭で言及した母親ですら、自分の中の無自覚だった「普通」に気づいて、さらに一歩大きい枠組みの中で自分と息子の立ち位置を見つめ直すことに距離と月日を要したんでしょう。

 

ここからは映画の内容と直接関係ない話をします。読まなくてもいいです。

ダイバーシティダイバーシティってどこの企業も言う。それなのにリクルートスーツが唯一認められた戦闘服って可笑しくない。いや、リクスーが悪いわけじゃない、TPOをわきまえるのはマナー。しかしその範囲内ですら、真黒のリクルートスーツをやめた瞬間に異端の目を向けられる。そんなに嫌なら、そんなの気にしないでリクスーじゃなくても受かってる人だっているじゃない、ってか。うるさいな、こちとら狭き門に人生掛けて戦ってるんだ、いらんリスク背負えるか!って思ってリクルートスーツ着ていますが本当に悲しい。こんなの絶対気持ち悪いと思っているのに「いらんリスク」って言えちゃう自分も、結局異端にもなりきれない自分も、全部全部悲しい。

 

普通って何なんだろうな。

自分のことを普通だと思うところは常識的な振る舞いがそれなりにできるところであり、普通じゃないと思うところは自分の認められないものを求められたときに強要だと感じるところ。

でもこれどちらとも結局超主観的な物差しでしかないわけで、そこに無自覚な「普通」は存在し得るわけですよね。それを無自覚で他人に「普通」だって押し付けるのってすごく怖いことで、押し付けられた側からしてみればひどく不愉快なことだと思いませんか。

(答えはないです。抽象度の高い話ばかりして具体に落とし込めないのがわたしの悪いところです。具体の経験・勉強不足と、アウトプットの仕方の問題が原因かな。)

 

どうでもいいけど、本作だったらルイはリクスーを脱げる人間でアントワーヌは文句は言うけど結局リクスー着て行く人間だよなと思った。本作において、普通へも異端へもなりきれないアントワーヌこそが、「普通」であることに対する自覚と葛藤を持ちつつも異端へもなりきれない人間の投影だったのでは。今回ものすごく嫌われ役だったけれど、きっと彼のこと一番嫌いだと思っているのは誰でもないアントワーヌ自身だと思う。言ってしまったら言ってしまっただけ、自分も傷ついているんだろうなあ。ルイが死んだらきっと口では清々した、とか言ってまた憎まれ口を叩くんだろうけど、きっと心の中は後悔と悔しさの涙でいっぱいなんだろうね。

 

ある日の帰り道、エズラ・ミラーは絶対にリクルートスーツなんか着ないんだろうなあと車窓に映る自分を見詰めながら思った。わたしにはエズラみたいな人間が現実にいることが、なんと頼もしくって、一方で眩しくって堪らないのだ。

 

 

「マグニフィセント・セブン」のはなし

「マグニフィセント・セブン」(アントワーン・フークア/2016)をみた

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感想 ただただただかっこいい

7人ひとりひとり全員が格好良くて、ドンガラバーンとテンポも良く爽快。何度も言ってアレだが、とにかく右から左から上から下からかっこいいが素手で殴ってくるので終わった後ちょっと動けなくなるし数日すると禁断症状を催して大変(進行中)。なのに西部劇だからかなんなのか、淘汰が想像以上に早く封切りから一週間足らずで箱がド小さくなるというゲンジツ…わたしも西部劇はほとんど勉強不足(「七人の侍」も「荒野の七人」も恥ずかしながら未見です)だけどとっても楽しめました。少しでも気になっていて未見の方は急いで劇場まで…!

兎に角、前述の通り勉強不足ゆえ大した考察もできなければ感想はもう一言で言い切ってしまったので、じゃあ以下に続くものってなんなんだろうな…?

 

死地のはなし

何故縁もゆかりもない地の人々のため、勝機の絶望的に見込めない戦いに身を賭せたのか、これに関してはほとんど疑問を抱かなかった。全員が何らかの薄暗い過去や傷を抱えていて、死に場所を探して生きてきた流れ者たちだったという前提があり、
これは持論ですが、人生における大概のことってほんと、どうにかなるんすよ
けどその中でもタイミングってやつだけは大切だと思っていて、「今だ」「ここだ」「これだ」っていう直感さえ逃さなければ、人生において後を引くような後悔ってそうそう生まれないんじゃないかと今のところは思っていて(アメエよ!って怒られるだろうか)話が戻ると、きっとマグな7人、チザム以外の面々特にファラデーなんかはそう生きてきたんじゃないかと思ったんだよね。赦されることなど遠い昔に諦めていて、ただ自分が納得できたときにこそ唯一自分だけが自分を赦せる瞬間であり、あわよくばその中でこそ死にたいと思って流浪してきた人たちなのでは。だってなんかもう死んでいったみんながみんな、いい顔して逝くから…何ならバスケスの今後の人生の方が気掛かり。徒らにファラデーと友情?なんて育んでしまって、これからあの大戦や友を越える何かの中で人生の終を見出すことができるのだろうか。おいて逝くって本当酷いよな!

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ピーター・サースガードのはなし

マグな7人が脚光を浴びているのでどうしても話題に上らながちですが今回の悪役ボス、バーソロミュー・ボーグを演じたピーター・サースガード、最高でした。
口を噤むだけでその場に緊張感が走り言葉を紡げば空気が張り詰めるような、冷水を背中に垂らされるような演技だなあと悪役でなくても思うのだけど(あとなんかすごい見透かされてる感する)、今回はそんなオーラに加えて眼光の作り方(ずっとうるうるしてる、怒ってるのか震えてるのか笑ってるのかもう全然わかんない)、発声の仕方(裏返ったりもする)、手足頭の動かし方(最終決戦のときなんかヤクキメたかと思った)なんかが相まって最高に不気味で、この人には逆らえないとそこに存在するだけで力を思い知らされるような気持ちに画面越しなのになりました。最初の演説も、お屋敷で言伝を聞き激昂するところも非常に良かったけれど、やっぱり、最終決戦を異様な雰囲気でもって高みの見物キメるシーンが激アツい。
それではここで一句 いついつも マッチで着火 大優勝(「完全なるチェックメイト」もみてね!)

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おわりに

バスケスのなで肩の話とか初戦でファラデーとバスケスの登場シーンが同カットのフレームインだったこととかなんなら背中合わせで共闘しちゃうところとか怯えるグッディがフシャーッて猫の威嚇みたいだとか最終戦でグッディが馬から弾切れのビリーに銃を投げ渡してすぐ後では教会に登っていくグッディにビリーが狙撃銃投げ渡すところだとか馬の名前がジャックだとか、好きなところとしたい話は沢山あるんだけどそのへんは言葉になればツイッターでしようと思います

本編で一番好きなのはグッドナイト・ロビショーという人間です、ありがとうございます

もう一度くらい劇場でみたいなあ。

 

「沈黙」所感

「沈黙」(マーティン・スコセッシ/2016)初日をみた

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《感想》

日本人として、あの時代の日本人の所業を、それでも実はその裏に隠された日本人の被った苦い記憶とを、知らずに生きてきたことを恥だと思った。

自分が信仰をもたないことを良くも悪くも思ったことはないけれど、信仰の果てに自身の答えを見出したロドリゴ神父が、そして生涯の中で自分が最も美しく強くそして弱くて汚なくなれる足掛かりを信仰に見出し選び抜けたことへ、ひどく羨望の気持ちを抱いた。ロドリゴの日本での境遇を思えばそれは一般的に哀れみの対象なのかもしれないけれど、わたしにはロドリゴが美しすぎて、そしてずっと羨ましかった。少なからずわたしもロドリゴにイエスを重ねていて、キチジローに自分を投影し告解さえしていたのだ。